2006年12月27日

『SWAクリエイティブツアー』新宿明治安田生命ホール

納富さんにチケット取っていただいて、初SWA(創作話芸協会)。落語も聞きたい聞きたいと思いつつ、自分で開拓せずに連れて行っていただいてばかりである。いかんなあ。寄席に行かずに、こういうホールにばかり出かける自分のような客は、落語ファンにとっては腹立たしいことであろうと思う。すみません。

三遊亭白鳥「恋するヘビ女」。リメイクだが、「99%新作」とのこと。勢いで突っ走るバカ話。おばちゃんの芝居が気持ち悪くて可笑しい。サゲですべって急遽(?)追加していたが、簡単に「手も足も出ない」までで終わらせた方が良かったんでないかなーと。「目から鱗」だと、ヘビって感じがしないのだ。鱗というと、龍か鯉(魚)っぽい。ヘビだけに、ちと蛇足、と(苦笑)
春風亭昇太「吉田さんの携帯」。話しも巧いが、ストーリーが巧いなあ。星新一のショートショート風味。
林家彦いち「カラダの幇間」。枕での新宿で職務質問された話と、本題に入ってのギャップがまた可笑しい。
休憩を挟んで、神田山陽「傘がない」。どこに落ち着くのかと思ったら、“不思議な話”だったのか。下北沢をこういう風に描写されると可笑しい。
柳家喬太郎「明日にかける橋」。高田文夫さんから出題の三題噺とのこと。お題は、「2007年問題」「バイオテクノロジー」「東橋」。おじさんが元気になる話(?)。年明けに発売の『落語ファン倶楽部』に、昇太さんバージョンのCDが付くそうなので、これも聞いてみたい。

人を泣かせるより、笑わせる方が多分難しい。客を「ああ面白かった」で家に帰らせるのは、大変なことである。ああ面白かった。
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2006年12月25日

12月歌舞伎座 夜

前楽の日に急いで歌舞伎座へ。今月は昼も観たかったのだが行けなかった。サッカーにうつつを抜かしすぎです。夜の部が始まる頃に、歌舞伎座前では門松の支度が始まり、終演後に外に出ると、立派なものが出来上がっていました。

「神霊矢口渡」。菊之助のお舟が可愛いーっってもうただそれだけで満足(笑)。義峰様に一目惚れして純情一途が、いじらしいのみで鬱陶しく見えないのは、単に欲目か。いやいや、菊之助の女形が清潔な感じだからに違いない、うん(<馬鹿)。身代わりになって富十郎の頓兵衛に刺されて、だけど父親が欲に眩んで自分を気にかける様子もないのが、悲しく悔しいというのが伝わる。
「神霊矢口渡」はお舟の悲劇なのだが、後味が悪くないのは、幕切れで舞台が回って水面のパノラマが広がるせいもあるかもしれない。回り舞台の仕組みというのは、本当によくできているものです。

「出刃打お玉」。前回の上演は観ていないのだが、makiさんがしきりにまた観たいと言っていたのがよくわかった。前回は増田正蔵が團十郎だったのだものね。團十郎の演じるヘタレで可愛い役が好きなのです(笑)。今回の増田正蔵は梅玉。前半の、初々しい若者として、気風の良い面倒見の良いお玉とのやり取りが、可笑しくも切ない。後半のエロ親父になっての対比も良い。
菊五郎のお玉が後半、老けた様子で出てくるのは、確かに笑いどころではあるのだけれど。大詰で正蔵を見送って、まだ良心が残っていた、変わり切った訳ではなかったと気付いての「正蔵さん…」の台詞で、何故笑うのか。そら、お婆ちゃんが昔日のような若々しい声音に一瞬なったら、バラエティ番組のコントではお笑いシーンかもしれないが、この芝居の文脈の中でも笑うかね。芝居自体と関係ないところで、ちょっと萎えた。
おろくの時蔵と、和尚の田之助が、普段にない役で楽しそうでした。

「紅葉狩」。海老蔵の更科姫に、松緑の維茂。海老蔵がすごい目つきでギロッと睨むものだから、自分がせっかく踊ってるのに維茂の野郎、居眠りしやがってーと怒ったから、更科姫は鬼の正体を現したのかと思ってしまった(笑)。侍女野菊は團十郎のお嬢さん、市川ぼたんだったが、綺麗な方だなあ。
山神役の尾上右近があんまりにも上手くて(さすがに前楽まできて、声は枯れてしまっていたものの)吃驚したが、帰って俳優協会のサイトを見たら、延寿太夫さんの次男、あの岡村研佑君なのか! すみません、不勉強にて二代目右近を襲名されていたことを存じませんでした。初舞台(7歳)のときから物凄く上手くて、友人とあれは誰だと話をしたのを覚えています。いや、順調に成長されていて、嬉しいことです。
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2006年11月28日

『トーチソング・トリロジー』PARCO劇場

鈴木勝秀演出によるパルコ「新」スタンダードシリーズの第4弾。
映画を観たのはいつだったろうと思ったら、1988年だった。マシュー・ブロデリックが美しかった。舞台(「インターナショナル・スタッド」)の初演は78年、翌年に「子供部屋のフーガ」と「未亡人と子供 最優先」が上演されて、81年に現在の3部作の形になったとのこと。70〜80年代の、ゲイカルチャーがクローズアップされ始めた時期の作品とあって、今観ると、素朴だな、と思う。90年代にかかるとエイズ問題が入ってくるので、その時代に作られたなら、もっと暗い影の差す物語となっただろう。
アーノルドを演じるのは篠井英介。女形として活躍する篠井さんだが、ゲイの役は初めてと聞いて、ちょっと驚いた。そう言えばそうか。いつもきっちりヘテロの女性か男性の役だな。バイのエドに橋本さとし、エドの妻ローレルに奥貫薫、アーノルドの若い恋人アランに長谷川博己、養子となるディビッドに黒田勇樹、アーノルドの母に木内みどり。また、シンガーにエミ・エレオノーラ。
しみじみと感動するのは3幕の、アーノルドと母の、どうにか相手を受け入れたい・受け入れられたいと思いつつ、理解し切れずにすれ違ってしまう対立なのだけれど、2幕も秀逸。大きなベッド(鹿賀版の舞台写真もベッドの上なので、戯曲で指定なのだろう)の上で、水が複雑に分岐しては合流しながら最後は一定の川の流れに落ち着いていくような会話が続く。1・2・3幕通して、淡々と、しっかりと構成された会話劇なのだよなあ。すごい戯曲だと思う。
1幕はアーノルドとエドの一人芝居で語られ、最後に2人が顔を合わせ緊迫感を出す。2幕は大きなベッドの上で具体的な場所と時間を定めずに、4人の中で組み合わせを変えつつ2人ずつの会話を続ける。3幕は具体的な部屋のセットを作って、リアルに芝居する。と、3幕それぞれ趣向を変えた演出も面白かった。
3幕の木内さんと篠井さんの会話が、「母娘」とも「母息子」ともつかない不思議な感じ。でも「母子」なのだ。友人・恋人・同僚・他人ではなく、家族の中の対立なのだ。対立のテーマが違うだけで、「親に自分を認めて欲しい」というのは普遍的なことだなあと思わされる。

橋本さとしのエドがヘタレで可愛かった(笑)。黒田勇樹のディビッドにからかわれ続けそうなのが良いです。
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2006年11月20日

『イヌの日』阿佐ヶ谷スパイダース 本多劇場

2000年の初演は未見。新たに追加されたのは、中津の動機付けとなる母親との関係と、ラストシーンらしい。母親との関係の方は、物語をファンタジーからリアルに引き寄せるために必要だったと思うんだが、ラストシーンはどうなんだろう? 無いと、またファンタジーに戻っちゃうというのもわかるが、有れば有ったで、それもファンタジーだし。
なんだかどこにも感情移入できなくて妙に冷静に見てしまって、終わり方に納得できない気分なんだが、どういう終わり方なら落ち着くのか、自分でもよくわからん。中津がなんで出来るようになったのか、がイマイチわからないのと、中津の母親(の中津との関係)がどうなったのか、がはっきりしないから、ラストに納得できていないということはわかっているんだが。中津、どこで乗り越えたのかな。「好きだよ」と言葉に出したとこかな。それにしては芝居が弱いような。
役者では中山、松浦、大堀。一見普通なのにずれてて気持ち悪いのが上手いなあ。剱持たまきが良くて、ちょっとびっくりした。失礼しました。「遊ぼう」がどっちの意味にも取れて、本来こういうのがロリータ的魅力なのかなーとか。

何でいきなりこれの再演だったのか? 昨年『胎内』をやって、自分にも閉じ込められる話があったなと思い出したのかね?
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2006年10月24日

『ペテン師と詐欺師』天王洲銀河劇場

天王洲アイル・アートスフィアの運営がホリプロに移り、銀河劇場としてリニューアルオープン。そのこけら落とし公演は、ブロードウェイミュージカル『DIRTY ROTTEN SCOUNDRELS』の日本版となった。元々は88年の映画『ペテン師と詐欺師〜だまされてリヴィエラ』をミュージカル化したもの。ストーリーを知ってるためドンデン返しで驚けなかったのは残念だったが、来るぞ来るぞキター!で楽しめたのでOK。騙し騙されのかわいいコメディ。

何と言っても、詐欺師ローレンス=鹿賀丈史、ペテン師フレディ=市村正親だもの。この配役の時点で勝ったも同然。唯一惜しいのは、市村さんがもう少し役の年齢に近かったら…ということだが、あれだけ弾けて芝居できるんだからそれは言うまい。3列目センターの至近距離で鹿賀さんの美声を聴けただけで、もうお腹いっぱいです。鹿賀フリークなんです。『デモクラシー』のシリアスなぶつかり合いも良かったが、この2人ならやっぱりコメディがいい。当人同士が余裕を持って楽しんでいるのが伝わってきて、嬉しくなる。
で、2人に対するクリスティーン=奥菜恵。この人は物怖じしなくて姿も雰囲気もとってもいいのだ。芝居が下手でも、華があるってのは重要なことだ。でもミュージカルなんだから歌をもうちょい頑張ってくれ。そこだけ頑張ってくれたら、あの目だけで全部許す(つまりは、結構好きらしい…)。
ジョリーン=高田聖子は、嬉しい吃驚。新感線で看板張ってるのは伊達じゃないというのを見せつけられた。あれだけ動いて芝居しながらきっちり歌えるとは。ミュージカル役者にまったく負けてない。さすがだ聖子ちゃん。1幕だけの登場で、本当にもったいない!
ミュリエル=愛華みれとアンドレ=鶴見辰吾の駆け引きも、クスリと笑える大人の鞘当。お互い打算もあるんだが、性根が素直でいやらしくないのが良い。

幕のデザインが凝っていた。20ポンド紙幣(エリザベス2世の顔が鹿賀さん)と20ドル紙幣(ジャクソン大統領の顔が市村さん)を上下に配してあるのだが、お札を折りたたんだように縦方向に折り目をつけてある。芸が細かい。

安心して楽しく見て、気持ちよく家路につけるミュージカルでした。銀河劇場はいい劇場だが、場所が天王洲アイルというのだけがネックだ。
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2006年09月07日

『百鬼夜行抄2』花組芝居 博品館劇場

わかぎえふ脚本による舞台化、第2弾。…『1』のときにも思ったのだが、やっぱりどうも、わかぎさんのホンは合わない。笑いのツボが自分とずれている。
『1』同様、「妖怪の出てくるサザエさん」がコンセプト。妖怪が普通にいるのが飯島家の日常、というのを表すために、エピソードをどんどん詰め込んであるが、原作ファンとしてはもうちょっとそれぞれの話を丁寧にやってくれよ、と思ってしまう。余韻はどこだ。
どうでもいいけど、大井さんが驚異的に老けないのは、妖怪入ってると思います。最初に見てから、かれこれ16・7年は経っているはずなんですが。
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2006年07月20日

『寺山修司という世界』劇団羊のしっぽ シアターイワト

大急ぎで出かけたものの、ちょっと遅刻。神楽坂の小劇場。通路脇の床に座布団を敷いて座って見る。
寺山作品のコラージュ。世界→演劇、演劇→世界が今も影響し合っているか、の問いかけ。いや、それにしても、キ印がいっぱいでお腹いっぱい、という感じ。天井桟敷の頃はさすがにさっぱり知らないので、当時を映しているのかどうかはわからない。絶叫と号泣を集めすぎたかもね。
こういう劇場に来るのも久しぶりだったが、終わって立ち上がろうとしたら足元がぐらぐらして、体力が落ちたなーと苦笑いでした。
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2006年06月10日

『メタル マクベス』新感線☆RS 青山劇場

センターの良い席を取ってもらってほくほくしながら観に行ったら、目の前の席は大きなお兄さん達でした…。

いのうえ氏演出の『天保十二年のシェイクスピア』がとても良かったので、シェイクスピアといのうえひでのりは合うに違いないと思っていた。観終わってからもそう思っているが、今回のクドカン脚色は色々付け足し過ぎて冗長な感じで、上演時間の長さの割りには物足りなかった。メタルマクベスの過去世界と、ランダムスターの世界を重ねる必要が、本当にあったかなあ。客に捨てられたスター=臣下に捨てられた王、というのはわかるが。メタルで『マクベス』を演るための理由付けが要るように思えたんだろうか。

内野・松の夫婦愛を強調したのは、バカップル演出ではあれど『蜘蛛巣城』的(笑)。内野聖陽の情けなさと松たか子のSっぷりが面白かったが、松さんが熱演し過ぎでちょっと周囲と違和感も感じた。もう少し、ユルい部分があればいいんだが。メタルの歌唱は、松さんの方が向いてましたね。内野さんはラストのバラード調になってからの方が似合う。
物語中でマクダフが儲け役(?)であることを差し引いても、北村有起哉が良かった。ちょっと見ない間に、大変色っぽい役者になっていた(ホモネタのことではなくて、「古田新太は色気を垂れ流しにしている」というのと同じ意味の色気)。今後が楽しみです。
あと、上條恒彦の存在感が凄かった。歌も桁違いであった。さすが。
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2006年05月24日

『MYTH』青山円形劇場

午後からビシャビシャと雨が降り始め、雷の光る中、こどもの城へ。

スズカツ10年振りのオリジナル脚本。パンフで脚本家Sと演出家Sが対談するところでは「10年どころか書き始めた頃からいっさい変化なし!」と思ったのだそうだが、見ている者は、あれ、こんなにわかりやすかったっけ?と感じた。非常に素直な父と子の「血の肯定」の話なので、演出家Sのシンプルな舞台で上演するよりも、クラシックに(ゴシックに、と言ってもよい)きっちりリアルな舞台セットや小道具を使って、オーソドックスに演出する方が似合うような気がした。
息子:タロウ(佐藤アツヒロ)、父:マサオ(篠井英介)、友人:ケンタロウ(中山祐一朗)の設定は幕開きで大体わかるが、それでラストまでの流れの見当がついてしまうのは、佐藤アツヒロの持ち味のせいなのかな。どうも彼には、悲劇や破滅に向かいそうにない雰囲気がある(佐藤版『LYNX』の終わり方も悲劇ではないと思う)。演出家Sにとっては、白は徹底的に「無垢」を表す色なのだなあ。物語の不確定要素は弁護士:ミヤモト(陰山泰)だけなので、彼(とその息子についての物語)がもうちょっと絡んでくると、自分好みにややこしくなったかな、と。
うーん、わかりやすすぎて、逆にのめり込めなかったので、ちょっと物足りない。MYTHの意が「1.神話、伝説」「2.作り話」「3.架空の人」であるなら、神話が不足していた。だからこそリアル演出で泥臭く観てみたい訳だ。

ともあれ、アールデコ文様が美しい舞台。最後に、扉(または棺)を閉じるように狭まって消える照明が良かった。篠井さんが父親役というのには吃驚だ(笑)。陰山さんのラスト近くの「生きているのはローンを返しているようなもの(うろ覚え)」という台詞が良かった。「生まれたときに先にすべてを与えられているんですから」と。後輩二人は、まだ先輩二人に負けてる印象。というか、陰山さん格好ええ。

タロウみたいな「生まれたことに何の意味があるんだろう」的なことを、高校生位の時期には、ありがちな感じでよく悶々としてた訳ですが、「無意味でも別に面白いじゃん」と能天気な方向に転換したのは、『超芸術トマソン』を読んだせいです。だから赤瀬川原平氏の自分に対する影響力は、未だに大きいのです。…なんてことをいきなり書いているのは、同時代ライブラリ版を持っていたのを忘れて岩波現代文庫版の『芸術原論』を買ってしまったからなのです。まあいいんだけど。
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2006年04月17日

『素ネオかぶき ザ・隅田川』花組芝居 草月ホール

『ザ・隅田川』は花組芝居の1987年の旗揚公演。さらに96年に改訂版『ザ・隅田川 再演ニ非ズ』の上演が行われている。今回も衣装やかつら、セットを使わずに、全員が黒紋付に袴の素の姿で演じる素踊りならぬ“素ネオかぶき”としての上演。

もともと同じバックボーンを持つ隅田川物(「雙生隅田川」「隅田川続俤(法界坊)」「桜姫東文章」「都鳥廓白波(忍ぶの惣太)」、隅田川の世界に「加賀見山旧錦絵」をぶち込んだ「隅田川花御所染(女清玄)」)の作品群を一つにまとめ直した作品なので、話の筋はあっちに行ったりこっちに行ったり、だいぶ取っ散らかって展開していく。吉田のお家の重宝「鯉魚の一軸」に眼を描き入れたばかりに鯉が抜け出すところから始まって、最後に松若が「鯉魚の一軸」を取り返し、鯉が戻って来るまで。鯉は恋。絵の中から抜け出した恋が暴れ回って騒動を引き起こす。筋の継穂として踊りが入るが、これがそれぞれちょっと長くてテンポが悪くなっている気がした(どうせ踊りを見せるなら、山下さんをセンターに出せーと思う天邪鬼屋贔屓)。
新人のお披露目公演の様相が強く、古参の役者は半分ほど。劇半ばには口上が行われたが、そこから内輪ネタ(座長=岩藤vs植本=尾上)を絡めつつ物語の流れに戻すのは上手かった(笑)。幕切れに、全員が座長に名前を呼ばれては座長の前に進み、掛軸を返していったん引っ込んで行く。それから、桜舞い散る中、リボンで巻いた掛軸を持って再び登場する。ああ卒業式、と思ったが、新人のお披露目なんだよね。入学式? でも入学式で、1人ずつ呼ばれて証書を受け取ったかしらん。

終演後、M2さんと渋谷までてくてく歩いて食事に行き、カニサレスと土肥ちゃんはキャラがかぶるということで意見の一致をみる。でも土肥ちゃんはコロンの瓶の破片で足切ったりしないよ!
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2006年02月20日

『労働者M』シアターコクーン

ケラの新作は今年はこれだけとのこと。ロシア・アヴァンギャルド風のチラシにポスター。舞台美術も基本は鉄骨にコンクリートの打ちっ放し。テーマ曲は空手バカボンの「労働者M」。はたらけーはたらけーダーイヤモンドはただの石。
近未来の収容所と、現代の命の電話相談所(という名のネズミ講)の物語が一人数役で並行し、時系列もときどき入れ替わる。おまけに肝心の部分は欠落している。…という旨の前説あり。社会主義と資本主義というより、近未来=理想・建前優先と、現代=欲望優先の対比という感じか? 制作レポート等を読んでいると、現代の方が予想外に膨らんだ結果こういう構成になった様子。どちらの世界でも“ニョロニョロもビロビロも”どっちだって同じよ、という構成だが、並行させずにどっちかに絞った方が良かった気もするし、わかりやすさやカタルシスや感情移入はダサいから排除したいならこれで良かった気もするし、どっちがよりケラっぽいかと言えば後者だろうからこれでいいのか。

肝心の部分の欠落、というのは、どうしてそういう状況になっちゃったのかの説明をすっ飛ばしたというだけではなくて…。物語の“結論”が欠落しているのだ。無意味。すべては無意味である、という、凄まじくペシミスティックな物語。珍しくきちんと会話劇になっているので「あるのかも」と結論を期待するが、「そんなもんはない」と突き放されてしまって、無意味さが圧し掛かってくる。『消失』も相当辛い話だったが、今回、さらに悲劇なんじゃないのか。近未来で何か信じて命かけたって無意味だし、現代で他人の気持ちをお構いなしに行動したって無意味だし、どっちも働いてる理由はわからないし、どうやって時間を潰せばいいの?と、悲しくて馬鹿馬鹿しいからますます刹那的に笑うしかない。この方向に突き詰めていくとそのうち精神的にまずいことになりそうだが、ケラの場合全部創作として計算に入っている気もするので大丈夫なのか。考えすぎると自分が凹みそうなので、有頂天の「僕らはみんな意味がない」を歌っております。ぼーくらはみんなーいーきているモノ、いーきているモノにいーみはないー、そこにいーみがあーるー、かなあー?! チケケのヌカカでええじゃないかー。いつものケラは、こっちだよねえ。

役者のこと。最近、新国立やtptを観に行っていないので、田中哲司と秋山菜津子のこういう役(性欲担当)ばかり見ている気がする。こういう役も好きだからいいけどね。2人とも格好良いね。犬山イヌコの現代の方の役は、今までないような普通の(?)女性で、声も作っていなかったので、しばらく犬山さんだという確信が持てませんでした(苦笑)。今回の儲け役かも。小泉今日子は、『エドモンド』のときも思ったのだが、芝居が舞台っぽくなくて何となく異質なものが混じっている印象を受ける。何だろう、一歩引いてないというか…映像と違って常に身体全体が見られているということを意識するあまり、演技し過ぎているというか。舞台の数をこなせば変わってくるだろうか。

余談。コクーンの公演パンフには蜷川氏とゲストとの対談が載っているのだが、今回のゲストは菊之助でした。『グリークス』でのしのぶさんとのラブシーン(?)について話していて、役者なんだからやんなさいと言う姉も、恥ずかしいと思って芝居できないことの方が恥ずかしいと言う弟もいいなあと思った。エレクトラとオレステスは良かったなあ(反芻)。
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2006年02月15日

『桜飛沫』阿佐ヶ谷スパイダース 世田谷パブリックシアター

阿佐スパというと、大抵観終わってから「何でわざわざカネ払って嫌な気分になりに来ているのだろう?」と自問し、その嫌な気分の中毒になっていくような芝居が多いのだけれど、今回は普通にエンターテインメントで驚いたというか、身構えて行ったので拍子抜けしたというか。『みつばち』は観なかったのだが、長塚の時代劇はそうなのでしょうか?
二部構成で、第一部は橋本じゅん、第二部は山本亨が主役。面白いことは面白かったのだ。書こうと思えばこういう芝居も書けるんじゃないかとも思ったし、ラストシーンの格好良さにも、第一部の橋本じゅん祭りにも、山内圭哉にも中山祐一郎にも満足した。でも時間が経つにつれて物足りなくなってくる。
この配役でないと成り立たない(キャストに頼った)脚本ではなかったか? 一部と二部をここまで切り離す必要があったか? 一部・二部は前段でもうちょいとコンパクトにまとめて、第三部で徳市vs佐久間をたっぷり観たかったような(これだと新感線になるかも)。観ている間は構成を知らないので一部は面白かったんだが、二部は謂わば定番のストーリーであるところに、一部と一向に関連してこないので、段々「アレ?」という気持ちが募ってくる。そう、切り離して見せるには、二部のストーリーが定番に過ぎました。特に狂女の使い方が安直ではないか。山内圭哉がいなかったら、かなり辛いことになったと思う。
面白いか面白くないか、と聞かれれば、面白かったよ。でももっと面白くできるだろ?!とモヤモヤが残る、という芝居。

ともあれ、橋本じゅん祭り。じゅんさん、格好良いよじゅんさん。抑え込んで見ないようにしてきた怒りを噴出させる、第一部のラストが良い。このところ、自分の芝居の幅をちゃくちゃくと広げているなーと思う。第一部の中山祐一郎も、普段と違って抑えた芝居で良かった。そう言えば、『間違いの喜劇』のパンフで、吉田鋼太郎さんが「影響を受けた喜劇人」に中山祐一郎を挙げていて吃驚した。
山内圭哉も相変わらず上手い。姿も気風もいい男なのに何かずれてて気持ち悪い、という池田成志と通じる上手さではないでしょうか(違うか?)。
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2006年02月14日

二月歌舞伎座夜

午後に健康診断を受けに行って、時間が半端なので代休消化で休みを取って、都美術館へ行こうと思ったのだが、5時閉館というのに気が付いて中止。予定変更して、歌舞伎座へ。

「梶原平三誉石切」幸四郎の梶原は初めて見たけれど、最後の石切のやり方が違うのね。仁左衛門や吉右衛門(ご指摘を頂き訂正)のときは、手水鉢の左右に六郎太夫親子を呼び、影を写して二つ胴に見立てて石切するけれど、幸四郎のでは離れて見ている。その後の裃を直すときに、梶原と梢が目を合わせるのが好きだったのだが、それもなかった。まあ、梢は人妻なので事務的(?)でもいいのかもしれないが。
「京鹿子娘二人道成寺」もう、これを観たいばっかりにやって来たという訳です。玉三郎と菊之助の道成寺ですよ! 初演は見損ねたので、演出の違いはわからず。花道から菊之助がやってくる、玉三郎がスッポンからセリ上がってくる。客席の集中度も、申し訳ないが前後とはレベルが違う。まるでアイドル公演のような舞踊。自分の後ろには大向こうさんが座っていて、「音羽屋!」「大和屋!」と声をかけていたが、これほど男に生まれなかったことを悔しく思うことはないね。一度でいいから、おっちゃんの声で「音羽屋!」とかけてみたいーくやしー。それは置いといて、「天守物語」で富姫・亀姫をやったときにも思ったが、この組合わせだと、どうして男二人でこうもユリっぽいのか。
登場の仕方からは、一応、菊之助が花子の人間の部分、玉三郎が変化の部分を仮託されているのだと思われるが、踊りの中ではそれほど意味を持たせた演出は無し。二人で踊る間は、菊之助は玉三郎の踊りに合わせることに集中するあまり、鐘のことを忘れている感じがする。一人のときの方がのびのびしていた気がする。“人外ならお手の物”の玉サマと渡り合うのは大変だろうよ。いや、それにしても艶やかな舞台で満腹ご馳走様でした。
「人情噺小判一両」前の舞踊がこってりたっぷり!なためか、最後の世話物は、菊吉だがあっさり短いお話。宇野信夫作。宇野信夫の戯曲って、ひょっとしてこういう「え、これで終わり?」というものばかりなのだろうか。先日の志の輔落語の「江戸の夢」といい、あらすじだけ読んだ気にさせられるのだが。立場が違うと理解し合えないというか、平等なんてものはないというか、思いやりも独りよがりというか…もうちょっと救いようのある話で締めてくれーと思わないでもない。でもまあ、安七と申三郎は身分は違ってもこの先仲良くしていくのよね(と無理やり明るい方向に向けてみる)。
やっぱりアレかな、道成寺の後にさらにハッピーエンドの話を持ってくると、客の頭がお花畑になりそうだからかな。

ついでに自慢。93年に梅幸・菊五郎・丑之助(当時)の音羽屋三代の道成寺を見たよ! そろそろ自慢していいよね(笑)! こうして徐々に團菊婆に成長していくのです。
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2006年02月12日

『間違いの喜劇』彩の国さいたま芸術劇場

蜷川氏は今年から芸術監督を務めるさいたま芸術劇場で、以前より定期的にシェイクスピア劇を上演している。今回が15回目のようだが、初めて行って来ました。与野本町、遠いんだもん…。グローブ座やSePTを大きくしたような造りで、きれいな劇場。

シェイクスピアの時代のようにオールメールによる公演。開演前から賑やかな踊りの曲が演奏されている。二組の双子を取り違えて町中が混乱するドタバタコメディなので、『NINAGAWA十二夜』と同様に舞台上には鏡によるセットが組まれる。しかし単に平面ではなく建物の外壁を模しているので、柱の曲線や扉の凹凸に鏡像は乱反射する。壁の飾りにはギリシャ・ローマ風の人物像が浮かび上がる。
ぶっちゃけ、吉田鋼太郎と山下禎啓を目的に観に行ったので、ちょっと高くついたなという気がしないでもない(苦笑)。それぞれイジーオンと娼婦役だったので、最初と最後にしか出てこないのだ。吉田さんは本当に、芝居に重量感があって良いよね。山下さんのルシアーナが観たいと思ったのはナイショだ(ちなみにエイドリアーナは加納さんで、ドローミオは大井さんだ/笑)。
とは言え、内田滋のエイドリアーナも、月川悠貴のルシアーナも、高橋洋のドローミオも良かった。特に高橋洋は、普段と違って身体で笑わせる道化の芝居をしっかり自分のモノにしていた。内田滋も、身体的な笑いをちゃんと表現できていた(彼の場合は、男性が女性を演じるという可笑しさもあるのだけど)。それにしても月川悠貴はクールできれいで吃驚です。彼だけだと、言われないと男性だとわからないかも。
小栗旬については敢えて書かない。

ところでパンフレットにもあったが、最初にイジーオンによって「名前以外は同じ」と語られる双子の名前は、何故か二人ともアンティフォラスになっている。戯曲の元ネタであるプラウトゥスのローマ喜劇『メナエクムス兄弟』の中で、同じ名前になった経緯が述べられているらしいが、シェイクスピアの時代には、わざわざ言わなくても、ちゃんと共通知識として観客がわかってたということだよね。歌舞伎にしても、歴史や古典を観客が知っているからパロディが成立していたのだし、昔の人達の教養ってすごいと思う。

もうひとつところで、チラシによると、グローブ座の<子どものためのシェイクスピア>公演が復活するようです。あのマペットも戻ってくるかね? 何にせよ嬉しいニュースだ。
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2006年01月17日

志の輔らくご in Parco PARCO劇場

恒例の志の輔落語、10回目の今回は年明けにほぼ1ヶ月間という長い期間で行われる。過去にPARCOでやった新作から2席+お楽しみ1席の構成で、プログラムが4パターンに分けられている。今日は其の参。1ヶ月間、日に2時間以上を1人でしゃべり通すという非常にタフな公演で、さすがに喉が辛そうだったが、先週も行かれた納富さんによればだいぶ回復されているとのこと。楽日まで頑張ってください。

「おどるファックス」番号違いの間違いFAXに、送り先が違いますよと返したら…。あー、いるいるこういう女、って感じなのだが鬱陶しいのがまた面白い。パンフレットにこの噺の原稿が掲載されていたが、オチに手を入れてあるのね。志の輔さんの噺に出てくる息子のタカシが、冷静なんだかボケなんだかわからなくて好きだ(笑)。
「メルシーひな祭り」登場人物が多くなると、演じ分けの上手いのがよくわかる。でも声が辛そうで、ちょっとやりにくそうだった。(ネタバレなので一応隠す)寂れた古い商店街、おっちゃんおばちゃん、ありあわせの掻き集め、神社の石段、とキーワードが並ぶので、なんとなくジメッとしたビンボ臭い印象も残しつつ終わるのだが、最後のお雛さまでその印象が吹っ飛ぶんですよね。「歓喜の歌」もそうだが、PARCOでないとできないネタかもなあ。三人官女の中に、ちゃんと男性が混じっているのが細かい(笑)。
お楽しみは「江戸の夢」。劇作家の宇野信夫による人情噺。枕は飛ばして、いきなり始まる。前段から何だかもっとドンデン返しがあるのかと思ったら、割とあっさり終わった感じ。話の中心にいるのは藤七なんだが、藤七自身の描写が少ないのが弱いのかなあ。「身寄りがありませんので」と藤七自身が語っている場面がどこかにあればよかったと思うのだが。長くなるので省いたのかな。

2/25にWOWOWで放送があるようです。他の演目の日だといいな。
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2005年11月28日

『12人の優しい日本人』PARCO劇場

プレビュー公演2日目。ほんとは12月後半のチケットを取るつもりだったのだが、Loppiで間違えたのだ。ま、今回は新作ではないので、脚本が間に合わないということもなかろうと、取り直さずに出かける(笑)。プレビューということで、開演前に三谷氏が登場して本公演との違いについて前説あり。
確か、先に中原俊監督の映画を見て、その後でPARCO Part3での再々演を観たのだったか。あのときは石坂浩二の『十二人の怒れる男』と同様に、Part3の中央に机を置いて、四方を客席(傍聴席)が囲む形の演出だった。今回は初演・再演と同じく、普通に舞台上に陪審員控室のセットが組まれている。
映画にもなっているし、15年前(!)の作品だしで今更ネタバレもないものだと思うが、もし知らない人がいるのなら知らないままに行った方が絶対に面白いので、内容については書きません。東京サンシャインボーイズではない役者さんによる舞台で、多少心配しつつ出かけたけれど、大丈夫!面白かった! いい脚本はやっぱりいいのだ。改めて観て、人物描写の巧さと展開の自然さは凄いと思いました。会話と行動だけで、ああ、こういう人いるいる、と12人がそれぞれどんな人物かわかってくる。で、そのそれぞれの個性が合わさった結果として、推理が進められていく。この芝居を実感を持って観られるというだけで、日本人で良かったと思う。
役者はハズレ無し。印象に残ったとこだけ。陪審員9号は小日向さんでしたが、物腰は柔らかいけど腹黒い感じで素敵(笑)。話し方に時折西村雅彦の演った9号を参考にしているのかと思うようなクセを感じた。2号の生瀬、しゃべりまくりお疲れ様です。美声をたくさん聞けて満足。8号の鈴木砂羽、初めて舞台で観たけれど、鬱陶しくも気はいい、物事を深く考えないおばちゃん予備軍な感じがGood。もっと舞台で観たい。あと11号の江口洋介。や、別にファンではないんですが、近くで観ると普通に格好良かったです。前半の拗ねた感じと後半のノリノリの様子のギャップに違和感がない。この人ももっと舞台で観てみたい。

日本には良い芝居がある。幸せ。
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2005年11月17日

『児雷也豪傑譚話』新橋演舞場

児雷也=菊之助、綱手姫=亀治郎、大蛇丸=松緑。タイトルは『綱手ちゃん最強伝説』が正しいんではないかというくらい、児雷也がヘタレ(笑)。もっとも、児雷也=蝦蟇、綱手姫=ナメクジ、大蛇丸=蛇の三すくみの構図だから、大蛇丸に対して児雷也がヘタレなのは当然なんですが。“特撮怪獣・ヒーローもの”という感じのB級風味がたまらん。菊パパと團蔵さんは心底楽しそうであった。
ストーリーはB級特撮だし、場面毎にテイストはバラバラだし、全体にハチャメチャではありましたが、あやめ=芝雀さんが出てくるとちゃんと歌舞伎の空気になるのがお見事。品の良いお方だ。亀治郎はいつも上手いなあと思って感心するのだけれど、今回は力強過ぎて、綱手ちゃん、せめて見得を切るときくらい内股でも良いのでは、と笑ってしまった。
筋書に過去の児雷也関連の作品が紹介されていて、その中に新東宝の『逆襲大蛇丸』という映画がありました。「大蛇丸の逆襲〜」「児雷也の帰還〜」とM2さんと笑っていたのですが、地獄谷の場面では本当にライトセーバー(=波切の剣)が出てきた。そして最後に登場してぜーんぶ持って行く菊パパ。楽して親の総取り。馬鹿馬鹿しくて良かった。
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2005年10月28日

『サラ−追想で綴る女優サラ・ベルナールの一生』サンシャイン劇場

初演・再演・再々演と、3回目の『サラ』。初回以降、最後のカーテンコールのために観に行っている気がする(笑)。
麻実れいは相変わらず素敵だ。11歳にも77歳にも瞬時に変わる七色の声。義足を使った不自由な歩行や、やがて死ぬ太陽を自分に重ねて投げ遣りになったりいらだったりする様子が、よりわかりやすくなった。華やかな生涯の晩年に、老いと死、忘却に怯えて、自分が成してきたことに自信を持てなくなったサラを、地味に貞淑に面白みもない男として生きてきた秘書のピトゥが支える。ピトゥは口ではあれこれと言いながら、“奥様”が本当に眩しくて心酔しているのだ。金田龍之介も相変わらず上手い。可愛い。元々の脚本では、むしろピトゥが主人公だという話なので、いずれ読んでみたい。

今回改めて、太陽にここまで自分を投影するというところに、サラの自負と孤独を感じた。この2つのイメージを結び付けたのが、この脚本の凄いところだと思う。19世紀後半に熱力学が確立されて、太陽にも寿命があるということが言われるようになった。当時ウィリアム・トムソンの説では、長くても2000万年ということになっていたのだそうです。2000万年なんてすぐだよ、すぐ。劇の舞台は1922年。サラ・ベルナールが生きた時代に、初めて「太陽もまた死ぬ」ということがわかったんですね。世界にひとつの太陽、光を放つ太陽、それもいつかはなくなる。輝かしい無邪気な時代は終わり、自分は忘れ去られていくのだ。でも今はまだ、朝日が昇ってくるから…。「おまえも本当は少しばかり怖いんじゃないの?」と太陽に問いかけるラストシーンで、サラは自分の恐怖を太陽と分かち合って、老いを受け容れて微笑む。

これが観たくて行っているというカーテンコール。(ネタバレ)ピトゥがテラスに現れて観客の拍手に気付き「奥様、奥様、ちょっとお出でください!」という感じに呼びかけて、サラが出てくる。あれを、と客席を示され、拍手に驚き、優雅に一礼する。一歩退いて見ているピトゥが嬉しそうなのだ。そして2人楽しげに手を取り合って家の中へ戻って行く。観客にもう一度お辞儀をしてピトゥが扉を閉める。中では先に入ったサラがピトゥに早くいらっしゃいと呼んでいるらしい。もうね、これだけで2人の関係を見事に表していると思って幸せになるのだ。麻実・金田コンビでずっと続けていって欲しい芝居ですね。
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2005年10月27日

『胎内』青山円形劇場+ゴーチ・ブラザーズ プロデュース

作・三好十郎、演出・鈴木勝秀。追加公演で行って来ました。敗戦から2年、汚職に絡んで逃避行中の花岡(伊達暁)と愛人・村子(奥菜恵)。山中の防空壕に身を潜め、中に住まっていた復員兵・佐山(長塚圭史)と出会う。地崩れのため壕中に閉じ込められることとなった3人の物語。
スズカツ+長塚という組み合わせが見たくてチケットを取ったけれど、むしろ奥菜恵の成長を確認するための舞台であった。01年の『大江戸ロケット』を観たときに、「奥菜恵はヘタクソなんだが、怖いもの知らずというか躊躇がないので、ひょっとすると化けるのかも」と書いているが、数年で化けたなあという印象。
奥菜に比べて、男性陣は分が悪い。役と役者の年齢は釣り合っているのだけれど、何だろう、戦中戦後の人との経験の差かね? 極限状態を体験したり、悪党としてのし上がってきたりという感じが薄い。花岡・佐山の状況より、村子の状況の方が現代でも想像しやすいということか。
役者にそういうズレを感じたものの、物語自体は現代でもまったく古臭くなかった。敗戦というショックですべての価値観がひっくり返された時代。他人を踏みつけにして金=力を得て何が悪い。その時その時が楽しければいいの。日本人・人間はどうしようもなく、その一人である自分も軽蔑すべき。三者三様の戦後の生き方は、助かる確率の限りなくゼロに近い状況に再び追い込まれたことで、その欺瞞を明らかにし始める。花岡は、転向者である自分を正当化するために金を得ようとしてきた。村子は、自尊心を守るために花岡が好きだと思ってきた。佐山は、すべての責任が自分にある気になって、罪悪感と悲劇に溺れて何もしなかった。
一度希望を得た後、本当にもう助からないのだとわかって、ようやく佐山は自分も「生きたい」と思っていたことに気付く。何のために生まれてくるのか? それはわからないが、生まれてこのかた「ああ、良かった」と思う瞬間が一度や二度あっただけで、丸儲けではなかったか。戦中にこの防空壕を掘らされた苦しみの中で自分は死に、生き延びたことでもう一度生まれたのではなかったか。「ここから出られたら、もっとちゃんとするのに」過去の自分を見つめ直し、過ちを知って、いつ倒れても恥ずかしくないように生きていこう。人間は弱い、弱いけれど許そう。そう思いながら終末を迎えるので、悲惨な物語ではあるけれど、気持ちは沈み込まずに劇場を出ることができた。
舞台セットは岩・土の地面に、所々ぬかるみを模したスポンジが貼られている。中央に天井からの滴りを受ける水溜りがあり、その脇に燭台代わりの割れた鉄パイプ。客席は一部がセット(出入口)になっていて、天井までの岩肌が据付られている。出入り口は、所謂“胎内からの出口”型。途中、乱闘の場面で明かりが中央のロウソクの火のみとなり、実際の壕中の暗さを理解できる。その一瞬後にロウソクを吹き消して暗転。上手い! 場面が進むに従ってロウソクの短くなっていくのが、先の知れない状況とタイムリミットを思わせて良い。
いろいろキーワードは出てくるし、洞窟自体にそういう隠喩はあるけれど、『胎内』とタイトルが付けられている理由がまだよくわからない。生の根源に立ち返る場所、か?
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2005年10月17日

『泉鏡花の草迷宮』花組芝居 シアタートラム

前の2公演を見逃しているので、久しぶりの花組。今回は鏡花まつりで『日本橋』と二本立てなのだけれど、『草迷宮』のみの観劇です。…『日本橋』の再演希望を出し続けてはきたんだけどさー、ぶっちゃけ山下さんの清葉が見たいからなのさー、という訳。植本さんに何の不満があるのでもないけれど、ただ、前回公演の清葉のイメージを崩したくなかったのさー。ごめん。
と、初演は観ていない『草迷宮』に来てみれば、山下さんが菖蒲でしたか! 大正解。山下さんの本気の女形が見たかったのだ。小次郎法師は桂さん。葉越明に松原さんを抜擢。婆・宰八は八代さんと大井さん。大井さん、再演でもやっぱり写真で見たあの扮装なんですね…。悪左衛門は原川さん。
2演目を交互に上演ということで、舞台装置の大枠は『日本橋』のものをベースとしてある。両脇の階段上に破れ障子の小座敷、中央も奥が数段高くなって、『草迷宮』では襖が閉められている。
化け物が出ても怖くないのが花組芝居だけれど、菖蒲が出てくるまでの前半は、狂乱の中にももっとおどろおどろしくても良かったな。明がまとも過ぎるのかな。手毬歌にとりつかれているのが唐突な感じがする。桂さんは何を演っても桂さんなので、こういう巻き込まれ傍観者の役は案外ハマると思う。てなことを思いつつ観ていたが、原川さんの声がかかるとぜーんぶ吹っ飛んでしまうのだ(笑)。ズルいキャラクター。そして現れる菖蒲。まとまりがつかなくなりそうなのを無理矢理まとめる存在感。ああ嬉しい。山下さんの毬つきを観られただけで満足です。
原作の小次郎法師は傍観者に留まらずに、涅槃会の回想を通じてうっすら菖蒲と関わってくる訳だが、その辺はカット。歌舞伎らしく、クライマックスでオチを言わずにチョーンと見得を切って幕となる。これはこれではっきりしていて良いが、明と小次郎法師は同じものであるとか、母胎回帰の迷宮とか、キーワードをひねりまくったストーリーに仕立てても面白かったかも。何にせよ、山下さんの女形です。それに尽きます。もっと仕事してください。
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